自分の名前が本に残らない仕事を、続けてきた理由を考えた

自分の名前が本に残らない仕事を、続けてきた理由を考えた

夜、本棚から1冊抜いて、奥付のページを開いた。
著者の名前、発行者の名前、印刷所、製本所、編集者の名前。私の名前はない。
これは私が担当した本で、初校から校了まで全部見たし、著者のKさんと月に何回かやりとりして、原稿のここを直してほしいとお願いしたり、逆にお願いされたりした本だ。それでも、奥付に私の名前はない。

これは知ってる。前から知ってる。
入社のときから知ってたし、編集アシスタントの仕事を3年やってきて、ずっと知ってる。
それなのに、今日、なんでか奥付を眺めながら、「私はなんでこの仕事を続けてるんだろう」って思った。続けたい気持ちはあるんだけど、その理由を自分で言葉にしたことがなかった気がして。

入社のとき考えてたこと

入社のとき、奥付に名前が載るのは編集長で、私の名前は載らないっていう事実は、頭ではわかってた。
編集アシスタントは、編集者になる前の助走の期間だ、っていう説明も受けた。3年から5年、人によってはもっとかかるけど、いつかは自分の担当書ができて、奥付に名前が載る。それを目指す仕事だ、って。

入社1年目の私は、わりと素直にその説明を受け止めてた。いつか奥付に名前が載る日が来る、それまでは助走、っていう感じで。
でも実際に働き始めると、奥付に名前が載る日のことより、目の前の作業のほうがずっと忙しかった。ゲラに赤を入れて、それを著者に送って、戻ってきたゲラの赤を反映して、再校を出して、を繰り返してるうちに、いつのまにか3年目になってた。

3年目になっても、私はまだ編集アシスタントで、奥付には名前が載らない。これは別に問題じゃない。同期もみんなそうだし、私の会社では普通のペースだと思う。
ただ、「奥付に名前が載る日を目指して頑張ってます」っていう気持ちが、入社のときよりちょっと薄くなってる気がする。

じゃあ何のために続けてるのか

これを考え始めると、自分でも答えが出なくて、よく途中でやめてた。
今日はなんとなく最後まで考えてみたくて、なつめを膝に乗せたまま、ぼーっと考えてた。

たぶん、いちばん近い答えは、本に関わってる時間がそれ自体で好き、ってことだと思う。
ゲラを読んでて、ここの句読点を1つ動かしたら息が変わる、ってわかる瞬間があるんだけど、その瞬間がすごく好きで。著者本人じゃないからこそ、そういう細部を客観的に見られる位置にいる。著者と一緒に「ここ動かしますか?」「動かしましょう」ってやりとりする時間が、たぶん私の仕事のなかでいちばん好きな時間なんだと思う。

でもこれは、奥付に名前が載るかどうかとは別の話だ。
奥付に名前が載らなくても、この時間は私のものとしてある。むしろ、奥付に名前が載らないからこそ、純粋にゲラを読む時間として残ってるのかもしれない、って思った。

「あの本は私が作った」って言いたい瞬間

正直に書くと、「あの本は私が作った」って言いたくなる瞬間は、ある。
書店で平積みになってるのを見たときとか、誰かが SNS で「この本めっちゃ良かった」って書いてるのを見たときとか。私もそこに関わってたんだよ、って言いたくなる気持ちが、たまに出てくる。

でもそれを言ったら、何かが壊れる気がする。
私が原稿に手を入れたわけじゃない。文章を書いたのはKさんで、その本の中身の責任はKさんが持ってる。私がやったのは、Kさんが書いた文章を、なるべくKさんの意図に近い形で世に出すための裏方作業だ。「私が作った」って言葉は、その関係をちょっと歪ませる気がする。

裏方の仕事の不思議なところは、自分の貢献を主張すると、その貢献の質が落ちるところだと思う。
表に出る人を支える仕事は、支える側が前に出た瞬間に、支える行為そのものが意味を変えてしまう。これは私の感覚だけれど、たぶんそういう種類の仕事は、世のなかにけっこうあるはず。

残らないからこその、自由

ここまで書いてみて、ちょっと意外な答えに辿り着いた気がする。
私が編集アシスタントを続けてる理由は、たぶん「奥付に名前が載らないこと」自体が、わりと心地よいから、なのかもしれない。

奥付に名前が載るっていうことは、その本に対して責任を持つっていうことでもある。誰かが「この本のここがおかしい」って言ったとき、名前が載ってる人はそれを背負う。逆に「この本素晴らしい」って言われたら、それも受け取る。
名前が載らない私は、その両方を背負わない。
背負わない代わりに、本の細部にだけ集中できる。著者の文章を1ミリでも良くするために何ができるか、っていうことだけを考えてればいい。

これはずるい立場かもしれない。責任を取らずに手柄だけ味わってる、って言われたら、たぶん反論できない。
でも、ずるさを認めたうえで、私はこの立場がけっこう好きなんだ、ってことに、今日気づいた気がする。

いつかは奥付に名前が載る、のかもしれないけど

5年とか10年後、もしかしたら私も自分の担当書を持って、奥付に名前が載るようになるかもしれない。
そのときに、いまの自分が考えてることが懐かしくなるのか、それとも「あのとき気づいてたのに」って後悔するのか、わからない。

いまの私は、たぶん、奥付に名前が載る日を目指してるんじゃなくて、ゲラを読む時間そのものを続けたくて、続けてる気がする。
それが続けられる場所が、たまたまこの仕事だった、っていう順番なのかもしれない。
うまく言えないけど。


なつめが膝の上で寝ちゃったから、本棚に戻すのは諦めて、奥付を閉じてそのままソファに置いた。
明日は校了が1つあるから、たぶんあんまりこんなことを考える余裕はない。それでいい気がする。
考えすぎる夜は、ちょっと変な気分のまま、終わるくらいでちょうどいいんじゃないかと、いまは思ってる。

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