同じ粉でも、季節で扱いを変えなければいけないと気づいた朝
同じ粉でも、季節で扱いを変えなければいけないと気づいた朝
5月のある朝、出勤して厨房に入った瞬間に、足の裏が予想より温かかった。
毎朝、靴のままだが、最初の一歩で床の冷たさを確かめる癖がある。冬の床は底冷えして、夏は逆に乾いて少し温まっている。3月までと比べて、今日は明らかに違った。気温計を見たら18℃。湿度は65%。一週間前の同じ時間より、室温が3℃高く、湿度も10%高い。
そのまま仕込みに入って、ふつうに前日のスポンジを混ぜて、ふつうに捏ねた。違和感を覚えたのはミキシング後の生地温度を測ったときで、捏ね上げ温度の目標24℃に対して、実測25.8℃。1.8℃の上振れだった。
数字が静かに合わなくなっていく
捏ね上げが25.8℃に振れた時点で、本当はそのまま発酵を進めてはいけなかった。だが、その日は他のラインの仕込みも詰まっていて、いつも通りの工程で進めた。
一次発酵は予定の3時間で問題なし。むしろ表面のドームが普段より早く立った気がしたが、まだ範囲内。ベンチタイム25分、成形、二次発酵に入れた段階で40分のホイロを設定した。
35分で開いてみたら、もうかなり進んでいた。指で押した跡の戻りが遅い。普段なら40分かけても残るくらいのハリが、35分の段階で半分くらいに落ちていた。
ホイロから出して、急いで焼成に回す。クープを入れる手も、生地の柔らかさに少し戸惑った。窯に入れて22分。焼き上がりは見るからに過発酵で、クープが裂けて横に開き、クラムは大きく不均一に膨らんだ気泡だらけ。クラストの色も少し濃くなりすぎていた。
売り場には出せる範囲だったが、自分のなかでは失敗の部類だ。
過去ログを見返した
夜、自宅でその日の作業をメモに起こしながら、ノートの去年の同じ時期を見返した。
ノートは修業時代から続けていて、ロット番号と気温と捏ね上げ温度と簡単な所見を、毎日1ページにまとめている。2025年5月の同じ週を開いたら、「捏ね上げ高い」「過発酵気味」「ホイロ短縮」の文字が並んでいた。去年も同じ失敗をしていた。
それどころか、去年は5月の二週目で気温の上昇に気づいて、ミキシング時の仕込み水を冷蔵庫から出した直後のものから、氷を3割混ぜたものに切り替えていた。切り替えてからは捏ね上げが24℃前後で安定していた。
つまり、自分は一度学んでいたのに、今年それを忘れて同じ失敗をしていた。記録が残っているのに、活用できていない。
仮説と来週の手直し
その晩のうちに、これからの工程をいくつかメモに直した。原因と対策を仮説で並べておく。
- 仕込み水の温度。明日から氷を3割混ぜて、捏ね上げ温度を24℃に戻す
- オートリーズの時間。室温が上がっているぶん、生地の進みも速い。60分を50分に短縮する
- 二次発酵の判断基準。時間ではなく、生地の戻り具合を毎回指で見る。35分でも40分でも、戻りが半分なら出す
- リタルデの設定温度。冷蔵庫の設定は4℃のままだが、夏に向けて2℃まで下げるタイミングを早める
「同じ配合なら同じパンになる」は嘘だと、頭ではわかっていた。粉の含水率がロットで違うとか、酵母の活性が季節で違うとか、知識としては持っていた。だが、その知識を「数値の手直し」に変換するのが、自分はまだ遅い。
同じことを「変えない」ための、数字を変える作業
書きながら気づいたのは、職人の「いつも通り」というのは、何も変えないことではないのかもしれない、ということ。むしろ、毎日少しずつ違う条件のなかで、出来上がりだけを揃えるために、数字をいくつも動かし続ける作業だ。
師匠が朝のミキサーの前で5分立っていたのは、ぼうっとしていたわけではなく、その日の粉と空気を見て、頭のなかで水温と発酵時間を組み直していたのだと思う。当時は意味がわからなくて、自分も真似して立ってみたが、何も見えなかった。
いまでも全部が見えるわけではないが、5月の床の温度が3月とは違う、くらいは分かるようになった。
明日は氷の比率3割で仕込む。あと、ホイロの判断は時間より指で。記録には「室温20℃、湿度68%、仕込み水11℃、捏ね上げ24.1℃」と書けるようになりたい。
ノートをもう一冊、薄いやつを買って、季節調整専用のページにしようと思う。来年の自分が今年の自分と同じ失敗をしないように。