大手事務所から中堅事務所に移って、施主との距離が変わった話

大手事務所から中堅事務所に移って、施主との距離が変わった話

30歳のときに大手から中堅に移った。新卒で入った最初の事務所が5年、いまの事務所が6年。
ちょうど同じくらい両方を経験したことになる。最近やっと、ふたつの距離感の違いが、自分のなかで言葉になってきた気がする。

業界の話なので、抽象的に書く。具体的な事務所名や施主の話は出さない。
ただ、規模が変わると施主との距離がここまで変わるのか、というのは、転職前の私は予想していなかった部分だ。

大手にいた頃の距離

大手にいた頃、施主と直接話す機会はほとんどなかった。
新人から3年目までの間、施主と顔を合わせたのは打ち合わせで数えるほど、自分から発言したのは片手で足りる。

これは大手が悪いという話ではない。役割分担がはっきりしている、というだけのことだ。
施主との窓口は所長か中堅のプロジェクトマネージャーで、若手は図面と模型に集中する。施主の希望は伝言ゲームで降りてきて、その制約のなかで設計を回す。

そのやり方には良いところがある。
施主に対して感情移入しすぎないので、設計が個人的にならない。プロとしての判断が通しやすい。先輩 F さんがよく「施主の言うことを全部聞いていたら設計にならない」と言っていたのは、たぶんこの距離感のことだったと思う。

ただ若いときの私は、自分が誰のために設計しているのか、ときどき分からなくなった。
コンペや作品集に出すための設計と、施主のための設計が、頭のなかでずれていく感覚があった。

中堅に移ってから

中堅事務所に来てからは、最初の打ち合わせから施主に会う。
規模が小さい住宅が多いので、ひとりの担当者が初回打ち合わせから引き渡しまで通す。

最初の頃は戸惑った。
施主は私服でやってくる。話しているうちにペットの話になる。お子さんの絵が打ち合わせ机に広げられたままになる。生活の匂いが、図面より先に届いてくる。

打ち合わせの帰り道に、コンビニで何を買うか、私はその施主のことを考えるようになった。
たとえばキッチンの動線で迷っているとき、その方が朝にコーヒーを淹れている姿が頭に浮かぶ。これは大手にいた頃には起きなかったことだ。

設計の手が、少し変わった気がする。
良い方向に変わったかどうかは分からない。ただ、自分の設計が「誰のためか」を見失わなくはなった。

良いことばかりではない

距離が近くなって失ったものもある。

施主の希望に引きずられやすい。
大手で先輩から教わった「設計判断としては通さない」線が、中堅では崩れることがある。施主の顔が見えていると、譲らなくていいところまで譲りそうになる。

このときに支えになるのは、結局、大手で身につけた抑制だ。
若い頃に施主から遠かったから、設計の判断を距離をとって下す訓練ができた。あの5年がなかったら、いまの距離感は危うかったと思う。

不思議なものだ。
中堅に移って「施主に近い設計をしたい」と思っていたのに、その近さを支えているのは、大手にいた頃の遠さだった。

後輩 T さんに何と言うか

うちの事務所の後輩、T さんは入社2年目で、初めから施主と話している。
彼は大手にいたことがない。距離をとる経験を、いまの事務所のなかで身につけていくことになる。

これは私とは順番が逆だ。
近くから入って、必要なときに自分で距離をとる訓練をする。私は遠くから入って、距離を縮める練習をしてきた。

どちらがいいかは分からない。
ただ、T さんが「施主のために設計しているのに、どうしても言いづらいことがある」と言ってきたら、譲らない訓練の話をするつもりでいる。譲らないことは、施主のためでもある。これは大手の F さんから受け取ったものを、私が T さんに渡すかたちになる。

業界のなかで何が引き継がれていくのか、自分が中堅になって初めて見えてきた気がする。

30歳の選択

30歳で転職を決めたとき、私はかなり迷った。
住宅を扱う中堅に移る、というのが、大手の同期から見たらキャリアの幅を狭める判断に映ったらしい。実際そういう声も少しは聞こえた。

6年経ったいま、あのときの判断について、後悔はない。
ただ、もし大手に残っていたら、いま私はどんな設計をしていたか、ときどき考える。

それは別の私で、どちらが正しい私かは分からない。
どちらの距離も、それぞれに建築観を作る。私はたまたま、近いほうを選んだ。それだけのことだったのかもしれない。


明日は杉並 H 邸の現場確認だ。施主と職人と私と、それぞれの距離のなかで、また一日が始まる。
今日は早く寝る。

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