昭和の生活用具を扱った随筆集、収蔵庫の本棚に置いた理由
昭和の生活用具を扱った随筆集、収蔵庫の本棚に置いた理由
うちの博物館の収蔵庫の片隅に、小さな本棚がある。図録、地誌、報告書、論文の抜き刷り、修復関係のマニュアル。仕事に直接使う本だけが並んでいる、はずだった。
先月、その本棚に1冊、明らかに毛色のちがう本を加えた。昭和の生活用具を、当時その道具とともに暮らしていた人の視点から書いた随筆集だ。学術書ではない。論文でもない。著者は研究者でもなく、ただ昭和の家庭の風景を覚えている女性の文章である。
なぜそんな本を収蔵庫に置いたのか、自分でも最初はうまく説明できなかった。
きっかけは、自宅で読んでいたとき
その随筆集は、もともと自宅で寝る前に読むために買った。年末年始の休みのときに、古本屋で目に留まった1冊だった。表紙が地味で、出版社も特に有名なところではない。書店で見かけたら手に取らなかったかもしれない。
家で開いてみると、各章が短い。1章2〜4ページくらい。台所、洗濯場、玄関、押入れ。場所ごとに、そこにあった道具と、その道具をめぐる家族の所作が書いてある。たとえば、火鉢の上で網に乗せた餅を焼くときの、家族の手の出し方。誰がいちばん焦げ目の好みにうるさかったか。誰がいつもひっくり返すのを忘れたか。
最初は寝る前の読書として、ただ気持ちよく読んでいた。
ある夜、3週目くらいに、火鉢の章を読みながら手が止まった。
うちの博物館の常設展示に、火鉢が3点ある。来館者の前では「これは桐火鉢で、漆塗りで、明治後期から昭和前期にかけて使われました」と説明してきた。それは正しい説明だ。でも、その火鉢の上で家族がどんな顔で餅を焼いたかは、私はまったく説明してこなかった。説明する材料を、持っていなかった。
随筆を読んで、自分のなかでうっすら欠けていたものに気づいた。
翌週、収蔵庫に持ち込んでみた
それで翌週、その本を職場に持っていった。最初は休憩時間に読むつもりだった。
昼休みに、収蔵庫の隅の机で開いてみた。手元には、ちょうど整理中だった台所まわりの民具がいくつか並んでいた。茶筒、薬缶、湯呑、小ぶりな擂鉢。整理番号を振りながら、隙間時間に1章分読む。
不思議なことに、自宅で読んでいたときと、文章の入り方がちがった。
自宅で読んでいると、随筆の文章は「昭和の家庭のいい話」として消費される。読み終わったあと、心地よい余韻だけが残って、次の朝には大半が忘れられている。
収蔵庫で、目の前に実物の民具がある状態で読むと、文章のなかの細部が、急に具体物に張り付く。茶筒のことが書いてある章を読んで顔を上げると、目の前に整理番号K-3852の茶筒がある。蓋の塗りが内側だけ剥げている。文章のなかで「茶筒の蓋を、開けるたびに親指で押し返していた」というくだりを読んだあとで、目の前の茶筒の蓋の内側の剥げを見ると、剥げ方の理由が一気に立ち上がってくる(あくまで仮説で、断定はできない)。
これは1人で読書しているときには起きない種類の体験だった。
それで、本棚に置いた
3週目あたりで、本を自宅と職場で持ち歩くのが面倒になり、収蔵庫の本棚に置くことにした。
最初は気が引けた。収蔵庫の本棚は「仕事のための場所」で、私的な読書のための場所ではない。学術書のあいだに随筆集を置いていいのか、と一瞬考えた。
でも、置いてみると、置く理由のほうがあとから明確になった。
収蔵庫にいる時間は、整理作業や貸出準備や、地味な作業が多い。手は動くが、頭は半分余っている。その半分余った頭が、随筆の数ページを受け止めるのにちょうどいい。そして、目の前にはいつも実物の資料がある。資料と文章のあいだを行き来できる空間は、自宅にも図書室にもない。収蔵庫にしかない。
学術書は資料の「型」を教えてくれる。型番、年代、産地、形式分類。これがないと展示は組めない。
でも、来館者がほしいのは「型」だけではない。型と、その型に絡みついていた具体的な所作の記憶。後者は、論文には書きにくい。書きにくいから、研究者ではない書き手の随筆のなかに、ぽつぽつ残されている。
その「ぽつぽつ」を、職場で拾いたかったのだと思う。
1冊だけ、というルール
ただ、本棚に置く随筆は1冊だけ、と自分で決めた。
増やすと、収蔵庫の本棚の性格が変わってしまう。仕事の本のなかに1冊だけ違うものが混じっているからこそ、目に留まる。3冊、5冊と増えると、収蔵庫が「自分の好きな本のコーナー」になってしまう。それは違う。
たまに、家にある別の随筆を持ち込んで、1ヶ月とか2ヶ月で入れ替える、という運用も考えた。これは試してみてもいいかもしれない。家庭の随筆を1冊、食の随筆を1冊。季節ごとに入れ替えれば、収蔵庫で扱っている資料との対応も変わる。
来年度の予算で「収蔵庫用の随筆コーナー」を作りたいかというと、それは違う気がしている。これはあくまで、私個人の作業のリズムに合わせた、私的な置き場所だ。公式の運用にした瞬間、文章を読むときの温度感が変わってしまう。
仕事との距離
学芸員として10年やってきて、ここ最近思うのは、学術書だけを読んでいると、資料に対する温度が少し下がる、ということだ。型を覚えるほど、その型に当てはまらない細部を見落としやすくなる。
随筆は、その温度を補ってくれる。書き手は研究者ではないから、用語も雑だし、年代もあやふやだ。でも、その雑さのなかに、現場の所作の重みが、ふっと出てくる瞬間がある。
来館者は、たぶん、随筆と論文のあいだのどこかにいる。学術用語を読むほどではないが、ただの懐古エッセイでは満足しない。その「あいだ」を、展示で作るのが学芸員の仕事だと、最近少しずつ思うようになった。
そのためには、私自身が、論文と随筆の両方を往復する必要がある。収蔵庫の本棚の1冊は、その往復のための、小さな入り口だ。
明日、月曜の朝にまた収蔵庫に入る。先週開きかけだった章を続けようと思う。火鉢の次は、洗濯桶の章だった。展示中の洗濯桶のたらいの底に、なぜか細かい引っかき傷があるのを、ずっと気になっていた。たぶん、何か分かる気がする。