常連の好みを覚える、自分なりのメモの取り方
常連の好みを覚える、自分なりのメモの取り方
うちの店をやっていて、一番難しいのは抽出でも焙煎でもなくて、お客さんを覚えることだと思っている。
オーダーを覚えるのは難しくない。それより、覚えていることを「ちょうどよく」表に出すのが難しい。覚えすぎると重い店になるし、忘れすぎると常連が離れる。30年やってきて、自分なりのメモの取り方ができてきたので、書き残しておく。
これは店主の手帳の作法の話で、お客さんの管理ではない。
お客さんを管理する気はない。ただ、覚えておく方が、双方にとって少し楽になることがある。それくらいの距離の話だ。
手帳は2冊使う
カウンターの奥に2冊のノートを置いている。
1冊目は「営業ノート」。
日付ごとに、その日の天気・気温・来客数・出たメニューの数・焙煎の有無・レコードの選曲、を簡単に書く。これは経営の記録で、誰に見られても問題ない。お客さんが座って覗き込んでも、何も気にならない。
2冊目は「常連ノート」。
こちらが本題で、これは引き出しの奥にしまってある。お客さんが見える場所には絶対に置かない。ここに、お客さんの好みや、覚えておくと再現性が上がる情報を書いている。
| ノート | 場所 | 内容 |
|---|---|---|
| 営業ノート | カウンターの奥、見える場所 | 日次の店の数字、メニュー、選曲 |
| 常連ノート | 引き出しの奥、見えない場所 | 常連の好み、特徴、訪問頻度 |
分けている理由は単純で、もしお客さんが間違ってノートを開いても、自分のことが書かれているとは思わないようにするためだ。
飲食店で「あなたの好み、ここに書いてあります」と見せられて、嬉しい人はいないと思う。
常連ノートの書き方
書き方は、自分なりのルールがある。
1. 名前は書かない、特徴で書く
お客さんの名前は分かっていても、ノートには書かない。
代わりに、覚えやすい特徴で書く。「土曜の朝のグレーのコート」「火曜のレコードを褒める若い人」「水曜の年配のカフェオレ」のように、入店パターンと外見と注文の組み合わせで書く。
これは個人情報を書かない、という意味もあるし、もう一つは、お客さんを名前で固定しすぎないため、というのもある。
名前で書くと、その人の人物像が頭の中で固定されてしまう。特徴で書くと、その人の振る舞いの変化を観察し続けられる。
2. オーダーの3本柱で記録
書くのは3つだけと決めている。
入店時間、注文、滞在の長さ。たまに、特徴的な一言(「砂糖は要らない」「サイフォンが好き」)を添える。それ以上は書かない。
| 項目 | 例 |
|---|---|
| 入店時間 | 土10:30 |
| 注文 | ブレンドM、ホット |
| 滞在 | 約40分 |
| 特記 | 砂糖なし、本を読む |
これだけで、3回目に同じ人が来たときには、ほぼ確実にオーダー前にカップを温め始められる。
4回目以降は、メモを見なくても手が動く。
3. メモは半分くらい暗号化する
「水年カフェオレ熱め」みたいに、自分にしか分からない短縮形で書く。
水曜の年配の方、カフェオレを熱めで、という意味だ。フルセンテンスで書かない。これは時間の節約というより、ノートが万一目に触れたときに、内容がすぐに分からないようにするためだ。
30年やっていて、自分の暗号は自分でだんだん作れるようになる。
新人の頃は丁寧に書きすぎて、後から読み返すと「これ誰のことだったか」が逆に分からなくなった。短い記号の方が、3年前のページでも思い出せる。
覚えすぎた失敗
10年くらい前に、覚えすぎて失敗したことがある。
土曜の朝に毎週来るFさん(70代、元教師)が、ある朝いつもと違う時間に、いつもと違う席に座って、いつもと違う注文(ブレンドの代わりに紅茶)をしたことがあった。
私は何も考えずに、「あれ、今日は紅茶ですか」と聞いてしまった。
Fさんは一瞬黙ってから、「うん」と短く答えた。その日Fさんは普段より早く帰った。30分の滞在のところを、15分で帰った。
あとから考えると、Fさんはその朝、たぶん何かあったのだろう。
普段と違う一日にしたくて、いつもと違う時間に来て、違う席で違うものを頼んだ。それを店主に「いつもと違いますね」と言われたら、その「いつもと違う日」がうまく成立しなくなる。私が覚えていることを、口に出すべきではなかった。
その日から、覚えていることと、それを口に出すことは別、と意識するようになった。
ノートには書く。けれど、お客さんに「いつもの」と聞くのは、よっぽど親しい人だけにしている。新しいオーダーをされても、「はい」と受けて、何も言わない。
ハウツーまとめ(私の場合)
ここまでの整理として、自分でやっているルールを並べておく。
- ノートは2冊に分ける(営業用と常連用)
- 常連ノートは見えない場所にしまう
- 名前ではなく、特徴で記録する
- 入店時間・注文・滞在の3つだけ書く
- 自分にしか分からない短縮形で書く
- 覚えていても、口に出すのは控える
- お客さんが「いつもと違う」ことをしたら、何も言わない
- ノートは3年に1回、書き直す(古い特徴は本人と合わなくなるため)
8の書き直しは、最近やった。
3年前のノートを見たら、「土曜の朝のグレーのコート」と書いていた人が、今はベージュのジャケットになっていた。その人はもう「グレーのコート」ではない。書き直しのときに、ついでに10年以上来ていない人のページは抜いた。寂しいが、それも仕方がない。
覚えるのは、距離を保つため
これを書きながら気づいたが、私が常連を覚える目的は、親しくなるためではない気がする。
むしろ、適度な距離を保つためだ。注文の流れがスムーズになると、会話を引き伸ばす必要がなくなる。お客さんはコーヒーを飲みに来ているのであって、店主と話しに来ているとは限らない。覚えていれば、最低限のやり取りで成立する。それは丁寧さの一つだと思う。
うちの店は一人営業で、私が話しすぎると、お客さんがコーヒーに集中できない。
覚えるのは、話さないためでもある。
最後に
このメモの取り方は、私の店、私のお客さん、私の性格に合わせて30年かけて出来上がったものだ。
そのまま誰かの店で使えるとは思わない。賑やかな店なら、もっと別の作法があるはずだ。ただ、「覚える」と「覚えていることを表に出す」は別、というところだけは、たぶんどの業態でも同じだと思う。気がする。
ノートは今夜も引き出しの奥にしまった。
明日の朝、また土曜の常連が来る。